「寒桜」 栗山匙太郎 作
蔵屋の店の中は静まりかえっていた。
居抜きで借りた五坪ほどの店に来る客は、日に一人か二人ほどだった。
それも冷やかしが多い。売上げのない日々がつづくと、蔵之介もさすがに
肩を落とした。文机の上に置いた時計の音だけがたよりなく時を刻んでいる。
「こんにちわ」
戸口に立つその人の周りだけ、春が香り漂っているようだった。
「いらっしゃいませ」
蔵之介は思わず都会のことばを口にした。
「あの、こちらにかわいい時計はないかしら」
桜のようなその人は、おもむろに狭くほの暗い店の中を見回すと、
あら、と、さくらんぼのような声を一粒洩らした。
「かわいらしい時計ね。おいくらかしら」
「すみません。これは売り物ではないのです」
「あら、残念だわ。他にはないの?」
「あいにく時計はこれだけです」
その人は深く吐息をついた。そして寂しげに沈黙をつづけたが、
「あたし、時計に未練があるの。だって時を刻むものって、人の暮らしの
証しですものね・・・」
そう言い残して透き通るように去っていった。
蔵之介は黒猫である。
人には見えないものを彼の瞳は映していた。
あの人が哀しい来歴の持ち主であることも、そしてこの世の人ではないことも
戸口に現れた時から判っていた。時計を売ることはできなかったのである。
あの人はこの世に未練を残してはならない・・・蔵之介はスルメをしゃぶりながら、
改めてこの世のぬくもりを覚えずにはいられなかった。
「蔵之介さあ〜ん」
遠く寒い山の方から、はかなく声が聞こえたような気がした。